井上和幸師の舞台に思うこと
能は舞うという。
一曲を舞う。
演じるとは言わない。
能の一部である仕舞や舞囃子も踊るとは言わない。
舞踊と舞踏とは明らかに違う。
なぜかと考えるのに、気で動くことをすべて舞うという言葉が気功の説明にあった。
つまり、能とは気で動くことなのだと思う。
演じる、舞踊、舞踏とはすべて人間の肉体が前提にあってのことである。
能は肉体ありきの芸術ではない。つまりは、気というエネルギーに肉体を載せていくと言えばいいのだろうか。
宇宙や人間の中にある人間、エネルギーの存在としての人間がそのまま表現されているということではないだろうか。
井上和幸師の舞台を見ていて感じたことは、まさしく能が舞われるものであるということだ。
演じているのでも、踊っているのでもなく、舞っている。
人間という肉体を超えた舞台がそこにあった。
人間には肉体という限界が常に存在する。
大方の芸術は肉体ありきでの表現を目指している。
井上和幸師が繰り返し稽古をするのは、肉体の限界を乗り越えるためだったかもしれない。
だが、それだけではない。
必要以上に繰り返す、その稽古の先に、ある意味宇宙と一体化するほどの気の流れが生まれてくるのだと思われるのだ。
宇宙と一体になる、強大な自然エネルギーと同化した状態になる。
すべてを投げ打ち、あらゆる執着を手放したその先にあるもの。
常にそのレベルまで目指していたのではないかと推察されるのだ。
観客として舞台を見ているうち、訳も分からずに涙が流れたり、突然悲しくなったり、ほっとしたり、嬉しくなったり。
これは井上和幸師という舞手の気の流れに巻き込まれた結果だろう。
能楽師であっても、得手、不得手というものがある。
だが、和幸師にはそれがなかった。
曲そのもののエネルギーと同化した状態で舞台を務めていたということだろう。
それほどに能というものをしっかりと舞われていたのである。
能とは何か。
井上和幸師を通じて、本来の能の意味に出会うことができた。
本物と出会うことで、本質を知ることができる。
能が古典芸能だからすばらしいのではない。
こうして本物を伝えられる人物が出て、伝えるべき意義を見出すことができるのである。
日本人として能に出会えたことに感謝する。
本質の一部でも垣間見ることができた僥倖に感謝する。
能の深さを教えてくれた井上和幸師に出会えたことは奇跡以外の何物でもない。
貴重なご縁に心からの感謝を送りたい。